僕が養子に入った高齢姉妹が千駄ヶ谷に所有する6階建てのマンションは、1973年に建てられたが、それより前は木造の住宅だった。戦前に建てた住宅は戦火で焼失、戦後の混乱が落ち着いた頃に再建、しかし将来の暮らしを見据えてマンションを建築したそうだ。
戦前の当家の様子を、姉妹の父親で文芸評論家として活躍した大井廣介と親交の深かった、坂口安吾氏が随筆”大井広介といふ男”に「大井君の家へ始めて訪ねたところが、裏長屋に永住して借金とりと口論ばかりして暮してゐる壮士だと思つてゐたのに、堂々たる大邸宅の主人公だつたので呆れてしまつた。」と記している。都心のど真ん中にありながら、庭で山羊(何でも食べてしまうと言っていた)や軍鶏を飼って、数え切れない程の犬や猫も一緒に暮らしてきた。朝起きると誰か知らない人が朝食の食卓を囲んでいるのも当たり前で、大らかな環境だったと姉妹達は言う。大井が連れてきた文人や編集者が酒に酔ってそのまま泊まって行く事は、日常茶飯事。安吾さんのように長逗留組もいれば、今のように交通の便も良くなければ情報もない時代、知り合いの知り合いが伝手を頼って田舎から紹介状を携えて上京、当家に泊まりに来る事も珍しい事ではなかった。しばらく家族のように暮らした安吾氏について、当時まだ幼かった妹は「自分のベビーシッターだと思っていた」と言うほどに関係が深かった。
戦火が強くなり、様々な生活物資が無くなって来た時、大井は丸善に出かけて愛用した豚毛の歯ブラシとフランス製の練り歯磨きを在庫分買ったそうである。そして庭に掘った大きな防空壕には、たくさんのタバコと洋酒が積んであったとか。呑気な姉妹でさえも「今、考えるともっと生活に役立つ買い溜めをしておくべき、大事なものがたくさんあったはずよね」と呆れて振り返る。東京での生活を諦め、故郷の福岡に都落ちしようという時に、料理屋の主人を招いて、カクテルパーティーを防空壕で開くことになったそうだ。僕が伝え聞いた戦争に関する話題で、最も呑気な話だとも思うが、いつどうなるか分からない状況の中で、最後の晩餐という気分だったのかも知れない。僕も同じ状況なら、ありったけの食材を使い皆で食卓を囲んでいるような気がする。
パーティーの準備をしていた時、マティーニ用のオリーブがない事に気付き、姉がお手伝いさんと一緒に、浅草まで買いに出かけたそうだ。オリーブとパイナップルの缶詰を買って、いつも立ち寄っていた花やしき、染太郎(文士の集まるお好み焼き屋さん)がどうなっているかと案じながら家に帰ったそうだ。カクテルパーティーは盛況に開催され、家族や仲間たちが福岡へ疎開した数日後に浅草は焼け野原になってしまったそうだ。最初は面白おかしくパーティーの様子を話してくれていた姉も、その頃になると真剣な眼差しでタバコを燻らせた。「あの時が、最後に見た戦前の浅草だった」そう言いながら、こっちを見て今のひと時に安心したような表情でにっこりとする。オリーブというと、僕はその事を思い出してしまう。その時に浅草で買い求めたオリーブが、緑だったのか黒なのかは分からない。しかし戦火が激しくなって本当に黒闇に向かっていく頃だから、黒オリーブだったのではないかと想像している。
さて、緑と黒のオリーブの違いは、単純に収穫の時期によるもの。早く収穫すれば緑で、完熟してから収穫すれば黒。緑は少し硬めの食感と青臭さが魅力で、黒は柔らかな食感とあっさりした味わいが特徴。熟成の途中で、紫がかったり、ちょっと茶色っぽくなったりするものも。そしてオリーブの品種は世界に目をやれば、1,000種類以上。紀元前3000年以上前から、食料や油や薬として地中海で活用されていたのだとか。そして紀元前700年辺りから、古代ギリシアはオリーブの栽培によって国力を蓄えたという、今の産油国のような存在なのかも知れない。それからイタリアへと伝わったのは、紀元前370年頃と壮大な歴史がある。そして、オリーブの木は樹齢1000年を超えるものも多く、長寿の樹。事実、我が家からも近くの明治公園内に、樹齢1000年を超えるスペイン産のオリーブの木がシンボルツリーとして存在している。
黒い粒の話に入ろう、僕が20代の終わり頃、水戸でダイナーのようなお店をはじめた時に、厨房を担当したシェフがランチメニューでよく作っていた、黒オリーブのプッタネスカのスパゲッティーが美味しかった。にんにくとアンチョビがしっかり効いた赤いトマトソースの中に、輝く黒オリーブの存在感と風味が、とても美味しく感じられた。そしてローストしたお肉に、黒オリーブで作ったタプナードソースを添えていた。簡単で万能なソース。僕は彼のお陰で、オリーブの活用方法や味わいを学んだと思っている。
<黒オリーブのタプナードソース>
材料
・黒オリーブ 100g
・にんにく 1/2個
・アンチョビ 2枚
・オリーブオイル 大さじ4
作り方
材料を全てフードプロセッサーにかけて、攪拌する。
※保存容器に移して1週間程で使い切る。
活用方法
パンに塗ったり、パスタに加えても、ローストしたお肉に添え流のも、サラダのトッピング、それぞれの料理や素材の味わいを引き立たせてくれます。
オリーブは平和の象徴とも言われて、国際連合の旗にもオリーブの枝が描かれている。平和の象徴と言われるその理由は、旧約聖書”ノアの方舟”で、大洪水のあと陸地を探すためにノアが放ったハトがオリーブの枝をくわえて帰ってきたことから、平和の訪れを告げたその存在から。恵まれた時代にありながら、未だ世界の各地では争いが絶えずにいる。様々な光や色を備えた黒という色は、争いも平和も内包しているのかも知れない。毎夜毎夜、色々な人が集う我が家の食卓は差し詰め多様性に満ちた現代版ノアの方舟のようである。今夜は黒いオリーブの実に、平和の祈りを託した料理を食卓に並べてみるのは、如何でしょうか。
麻生要一郎(あそうよういちろう)
料理家・執筆家。家庭的な味わいのお弁当やケータリングが評判となり、日々の食事を記録したインスタグラムでも多くのフォロワーを獲得。自らの経験を綴ったエッセイも人気で、現在は雑誌やウェブサイトでの連載も多数。最新刊は「365 僕のたべもの日記」(光文社)黒い服を着ると愛猫チョビの毛が、あちこちについている。