「黒にまつわる映画の話」
有坂 塁 研究員

黒にまつわる映画の話

研究員の有坂塁さんが、映画に登場する印象的な「黒」や
映画の世界観をより深める「黒」の効果についてお話するコラムです。

「シネマヴェーラ渋谷」の暗闇

うす暗い照明のなか、予告が流れ、
いよいよ真っ黒な暗闇に包まれるそのとき。
僕たちは映画のはじまりを予感します。

でも、その予告が無く、突然本編がはじまったとしたら?

「シネマヴェーラ渋谷」は、渋谷にある映画館。
主に旧作を上映する名画座です。

席に座り、時間になるとブザーが鳴り、
足元灯もない劇場は真っ暗闇の世界に包まれます。
そのあと、パッと投影される映像は、もう本編。
CMも予告編も、もっといえばマナー広告さえも流れません。

シネマヴェーラ渋谷で映画を鑑賞するたびに、この体験って、すごい大きいなと思うんです。
真っ暗になってからCMや予告編を流す劇場と、半分ほど照明を落としてCMや予告編を流し、本編のときに真っ暗にする劇場。劇場によってさまざまですが、本来は “真っ暗” を体感することが映画館に行くことの大きな意味であったはずなのに、CMや予告ありきで暗闇の度合いを変えているっていうのは、なんだかもったいないなと思っています。

映画のいいところって、劇場という異世界に自分が身を置いて、どこかの国の誰かの人生を追体験できること。だけど、もし明かりがつきっぱなしの劇場だったら、その体験に深く潜るということは難しいんじゃないかと思うんです。
なのでスクリーンと観客席の境界線をゼロにするのが、暗闇の役割だと思っています。

少し前に、ジャン=リュック・ゴダールの遺作『遺言 奇妙な戦争』を見に、新宿武蔵野館へ行きました。ゴダールのファンからしたら、この先もう彼の新作は見られない。わずか20分の短編映画なのですが、神々しいものと向き合うような気持ちで、はじまるのを待っていました。いざ上映開始時間になって、CMや予告編がスタート…するかと思ったら、なんと一切流れなかったんです。いきなり本編がはじまって。うわ、かっこいい!と思いました。でもいつもは流れるはずのものが、なんで今日は流れなかったんだと、ものすごく気になってしまって。劇場の方に聞いてみたんです。すると、「ファンの気持ちを大切にして、この作品だけは予告を流さなかったんです」とのこと。
この経験であらためて感じたのは、楽しみにしている映画を、CMや予告の延長で見るのとそうでないのとでは、気持ちの入りかたが全然違うということでした。ゴダールの新作は、だからこそものすごい満足感でしたし、忘れられない体験になりました。

だから、もし僕が新しく映画館を作るなら、映画館の暗闇を120%体験できる劇場を作りたい。
カフェ機能をつけたり、椅子のクオリティにこだわったりするプラスアルファの要素ではなく、ただ削ぎ落としていく。それがもう、みんなにとっては特別な体験になるはずだと思うんです。

以前開催した映画イベントでも “真っ暗” を体験したことがありました。マンションの地下室で、なぜか井戸のある空間。そこは入口を閉めると、完全に真っ暗になります。映画の上映の前後で、僕から映画についてお話をするのですが、あえて真っ暗の中で喋ってみたら、誰がどこにいるかもわからなくなって、ことばがふわふわ暗闇を漂っていく感覚になりました。それだけでみんな初めての体験を共有しているという期待感もありましたし、どこにいて、いま何時で…、なんていう概念すらなくなって。暗闇に包まれている安心感すらあって。
そういう意味で、暗闇の中にいると、人の心の奥の方まで潜れるような感じがしたんです。余計なものが削ぎ落とされていって、心しか残らない、みたいな。
これはもう、直感とか、感覚とか、すぐにことばにできない自分のポテンシャルをも引き出すことに繋がるんじゃないかと思いました。

余談ですが、僕は映画を見る時に必ず前から3列目くらいの真ん中くらいに座るんです。後ろの方で観客のリアクションも含めて客観的に見るという楽しみ方もあるんですが、それよりも暗闇に身を置いて映像や音を浴びたい。視界いっぱいにスクリーンがあって、音を浴びるように体感したいんです。だから、あまり “鑑賞” だということも思っていないかもしれません。だって映画館に行くんだったら、もう落ち着いて冷静に見ている場合じゃないだろうって思うんですよ。ライブを前の方で見たいのと同じで、音を浴びて、終わったあとにフラフラしたい。その余韻の中で、何を考えるかっていうことを楽しみに映画館に行っています。

さてまた今日も、映画館に行って来たいと思います。

イラスト / 前田ひさえ